文学フリマ事務局通信

主に文学フリマ事務局代表が書く雑記帳です。

感想

映画に臨む前に、ふゆ君経由でいろいろとウワサを聞かされた。

その内容とは、ようするに「制作状況がヤバイ」というもの。

直前まで「“ガンドレス”状態かもしれない」という危惧もあったらしい。


そんな話を聞いていたので、序盤はまあいいんじゃないかと思った。

しかし、観鈴と往人が出会って出崎監督十八番のハーモニー処理。

これに力がない!

ハーモニー処理は全編に多用されているのだが、成功しているのは3割程度。

そして失敗している部分も、世間で心配されていた「AIRの雰囲気と出崎演出のミスマッチ」などというものではなく、単純に作画のレベルが低すぎるためだ。

正直、これには落胆させられた。

往人が雨を眺めながら観鈴との関係を思い悩む場面でのハーモニーはとても良かった。

全編を通してこのレベルが維持できていればと思うと、つくづく惜しい。


全体の作画も観鈴が病に伏せるあたりから著しく乱れてくる。

観鈴や往人の人相が変わってしまう場面もある。

TVアニメならともかく、劇場アニメでこれはつらい。


声優陣の演技、特に川上とも子は素晴らしい。

例の「がお」や「にはは」という萌えキャラ的セリフは脚本の段階でほとんどなかったという。

パンフの監督インタビューによると、出崎監督のコンテの段階で復活させたらしいが、アフレコ段階での川上とも子の貢献も大きかったのではないかと推測する。

「がお」は劇中一回しか言わないのだが、たくみな間(ま)とニュアンスで喋っていて違和感がなかった。

「にはは」という笑いに至っては、観鈴が笑う場面で川上とも子が自発的に「にはは」と演じてくれたのではないかと思うぐらいだ。

観鈴の「にはは」は素直にかわいかった。


ちなみに原作ゲームの他のヒロインはモブシーンで一瞬見切れるだけ。

その場面では館内から失笑がもれていた。

しかし下手に本筋に絡ませたりするよりは、「往人と観鈴の物語」として、このあり方で良かった。


keyのゲームは背景ビジュアルが美麗なことで定評があるが、劇場版の行信三の手による背景美術も良い。

背景の美しさは『AIR』のアニメ化には不可欠な要素なのだろう。


クライマックスとなる祭礼の場面では、往人の観鈴に対する感情の変化がやや唐突で違和感があった。

「俺もアイツを裏切っちまった」という意識に至るところが急過ぎる。

動転する晴子につられてしまった、という風にしか見えない。

ふゆ君とも話したのだが、「おそらく制作が間に合わず、重要なセリフを含む何シーンかをカットしてしまったのではないか」と推測する。

ここがもっと上手くできていればこの作品の印象も格段に良くなったと思うのだが。


そろそろ結論に。

出崎監督の演出が『AIR』に合わないという印象は全くなく、むしろ『AIR』の物語が監督の貴重な側面を引き出した。

言ってみれば「乾物屋ののりちゃんから逃げない矢吹丈」の姿が往人の中にはある。

バッグを背中に翻す往人の姿などは矢吹丈そのもの。

丈が逃げてしまった闘い、愛への闘いを出崎監督は往人に託した。

この映画の中で語られる古代の物語と現代の物語は二重映しでありまた鏡映しでもある。

古代では孤独な神奈が柳也の愛を通して飛翔したが、現代では孤独な往人が観鈴への愛を通して自己肯定に至り、悲劇を受け入れるかたちで旅立つのである。


しかし出崎監督の意図はフィルムの上に実現したとは言い難い。

はっきり言って監督のコンテに作画が追いついていないのである。

後半などは乱れた作画のむこうに、出崎監督のコンテが目指した理想を透かし見るように鑑賞しないと楽しめない。

しかしこれが劇場版『AIR』なのである。

出崎ファンの私もこの現実を直視しなくてはいけない。

DVDでリテイクされるかどうかはわからないが、出崎ファンはやはり劇場で観るべきだ。