文学フリマ事務局通信

主に文学フリマ事務局代表が書く雑記帳です。

あるいは、新人の小説を皆に読ませる為のブックガイド

 いま私の手元には本日発売されたばかりの「新潮」11月号がある。表紙には第36回新潮新人賞発表とあり、その左下には佐藤弘「真空が流れる」と書いてある。

「サトウヒロシが新潮の新人賞獲ったらしいよ」という話はちょうど一週間前に、大学院の同級生から教えられた。サトウヒロシ? あの佐藤弘のことだろうか。ありがちな名前だからウチの学校に私の知らないもう一人のサトウヒロシが(たとえば佐藤博とかが)いるのかもしれない。冗談ではなく、一瞬本当にそう思ってしまった。


 私と彼は大学に入学した一年目、最初のゼミで席を並べている(この学科では一年時からゼミがあるのだ)。とはいえ顔を合わせていたのはその一年間と、かろうじて二年生の頃に授業で見かけたという程度で、三年生以降はほとんど会話を交わしたこともないばかりか、顔を合わせた記憶もない。聞くところによると彼は一年留年したというから、あまり学校にも来ていなかったのかも知れない。ただ他の同級生に比べても真面目なやつだったし、留年は不勉強の結果というより思うところあっての計画的なものだったのではなかろうか。それにしても私は学部の四年間を終えてそのまま大学院に進学したから、彼とは丸五年間同じキャンパスで過ごしているはずなのに、その後半三年間での縁のなさは不思議な気もする。

 彼はとにかく音楽好きで、最初の自己紹介の時から音楽について語り合える友人を探しているというような口ぶりだったのを覚えている。私は「ギターポップが好きだ」という彼に対して「え、ギターポップ?」という感じだったので期待に沿う話し相手にはなれなかった。「カーディガンズって知らない? CMでも流れてる。ああいう感じ」などという説明から始めなければいけなかったのは、彼にとって甚だ不本意だったろう。

 数少ない彼との接点である一年間のゼミを通じて印象深いのは、やはりゼミ誌の製作だ。彼は受賞者インタビューの中で、最初に書いた小説は一年のゼミ誌に発表したが「悲しいくらいに稚拙なものだったんで、データを消去してしまいました」と語っている。しかしきっとゼミ誌の現物はちゃんと保存しているだろう。私はこのゼミ誌の編集を担当していた。そうか、あれが初めて書いた小説だったのか。


 私は彼の受賞作を読み、初めて書いたというあの習作のことが思い出されて仕方がなかった。受賞作「真空が流れる」はセロニアス・モンクはっぴいえんどスカパラビースティ・ボーイズといった実在のミュージシャン名が頻出するのだが、これとまったく同じことを彼は習作のなかでやっている。それと会話の多さ、いや対話へのこだわりと書いておこう。それも習作と共通している。

 このゼミ誌に掲載した各自の作品を、ゼミで合評したことがあった。この合評会自体は私にとってあまりいい思い出ではない。そもそもゼミ誌の掲載作品が、五分で書いたような詩の一片を提出して済ませたものだったり、締め切りに迫られて書き殴ったような短編だったりした。それどころか合評会当日までに他人の作品に目を通さなかった同級生が何人もいた。当然彼らは先生に感想を求められても答えられないわけで、教室の重苦しい沈黙に堪えかねて仕方なしに私が手を挙げるということが繰り返された。すると私もつい批判ばかり述べてしまい、なにやら他のゼミ生全員の作品を批判するような格好になってしまった。しまいには私が喋っている最中に教室の隅で「あいつ何様だよ」的なひそひそ話が交わされるに至り、私は同級生たちに呆れ絶望した。事務局通信2004/4/12で語ったような孤独な学校生活を選んだ直接のきっかけとなったのがこの合評会だったのである。

 やや話が横道にそれてしまったが、この時やはり彼の習作について私は意見を述べたのである。覚えているのは「ベルアンドセバスチャンとかステレオラヴとかロケットシップとかの固有名に混ざって小沢健二の名前が出てくるのは、ちょっとどうか。作者が透けて見えるような気がする」と言った私に対して、彼が「むしろそれはわざとで、ステレオラヴとか知らない人が多いだろうから、わかりやすいオザケンの名前をだして繋げるようにした」と答えたことだ。彼が読者のことを考えて小説を書くような感覚の持ち主だったことが少しだけ意外だった。それからこの小説は引きこもり気味のマンガ家と女性編集者のやり取りを描いた小説だったのだが、私が「僕はよしもとよしともっていうマンガ家が好きなんだけど、その人のイメージに近いような気がする」と言ったら「モデルにしたつもりはないけど、僕もよしもとよしとも好きだから影響あるかも」と答えたことも覚えている。この瞬間は私と彼の心がもっとも近付いた一瞬だったかもしれない。

 また会話の多さについては先生が言い出したような気がするが、とにかく全体の話題になった。この時、私は「それはやはりマンガの影響があって会話が多いんじゃないでしょうか。それが悪いってことじゃなくて現代的なんだと思います」と意見を述べたのだが、ゼミの先生が「いやいや、例えば太宰は落語の影響を受けて会話をすごく取り入れてね」などととんちんかんなことを述べはじめて、その教授とのディスコミュニケーションを痛感したことも思い出される。

 それはともかく、彼の対話へのこだわりはこの習作時代からのものだった。もちろん、その巧みさは受賞作とは比較にならない。受賞作では登場人物たちの対話の間に地の文を挟まずに成立させる手法が意識的に採用されているが、習作時代にはその片鱗もうかがえない。あの対話は彼のこだわりがたどり着いたスタイルなのだろう。


 褒めてみたものの、彼がここまで書けるようになるとは、あの頃は思いもしなかった。だから私は自分の眼力を自慢したくてこの文章を書いているのではない。はっきり言って私は彼をダメなやつだと思っていた。それは二年生の時、教室で彼が松本大洋の『鉄コン筋クリート』を読みながら「もう何度も読み返してるんだよね」と言った時に確信した。ただ一方で、ある朝彼が教室に来ていきなり「オレ、この間の小説書き直して新人賞に応募することに決めた!」などと宣言し始めたことがあり、周りの友人たちが「まあまあ、落ち着けよ」などと笑っていたのを見て、この連中はもっとダメな奴らだなと思ったこともあった(結局その時は応募には至らなかったのだろう)。あえて傲慢な言い方をさせてもらうと、彼がこういう輩との付き合いでスポイルされなかったことが私には一番の驚きだ。ただある時期から顔を見かけなくなったという実感から察するに、彼が自覚的に孤独を選んだであろうことは想像に難くない。

 そんなわけで、この文章は自らの不明を恥じ、彼のデビューを宣伝する為に書かれている。気になった方は今店頭に並んでいる「新潮」を手に取って、彼の作品だけでもいいから読んであげてください。

 私は今、ティム・バックリィの『グッバイ・アンド・ハロー』を聴きながらこれを書いている。彼がこのレコードを持っているかどうかは知らない。所詮、その程度の付き合いしかなかったということだ。